妹に言いたいこと…

ワタシノイモウト

人生を諦めている私の人生観

投稿日:2019年6月24日 更新日:

こんにちは、妹の兄です。

前回、「創価学会の勧誘(折伏)を10回以上断った理由」という記事を書きましたが、長文になってしまい、話も脱線しそうだったので、こちらで私の宗教観や人生観についてお話したいと思います。

私は人生を諦めています。

まずはじめに、私は人生を諦めています。

「諦める」というとネガティブな印象を持たれるかもしれませんが、「受け入れる」とか「委ねる」といったニュアンスです。

私は「運命や人生ははじめから全て決まっている」と思っています。それが正しいかは別として、自分が納得して決断したことは今の自分にとって最善の選択であり、最善を尽くした結果、どのようになっても全て受け入れられるのです。

運命は決まってる!?人生のシナリオが全て決まっている理由

例えば、数学のテストです。「次の数学のテストで100点取るぞ!」と学習塾に通い、家庭教師を雇って、今考えられる最善の勉強法で猛勉強した結果、テストの点数は30点でした。しかし、それは今の自分が最善を尽くした結果なので、今の自分にとっては30点がベストスコアであり、100点取れなかったことを今の自分が悔やむ必要はないわけです。

ですから私は、

「お金持ちになってもいいし、貧乏になってもいい」
「仕事で成功してもいいし、失敗してもいい」
「病気になってもいいし、健康でもいい」
「人から好かれてもいいし、嫌われてもいい」
「早死にしてもいいし、長生きしてもいい」

そのように思って生きています。

決して無責任に生きているわけではなくて、自分がベストを尽くしたのだから、そこから先は運命に身を委ねるしかない。そして、どのような結果になっても自分が悩んだり苦しむ必要はなく、ただその結果を「わかりました」と素直に受け入れれば良いということです。

仏教の「四諦(したい)」

私は仏教(お釈迦さまの教え)が正確に伝わっているのか疑問に思っていますが、仏教の全てを否定しているのではなく、「そうだよねぇ」と共感する部分もあり、仏教の「四諦(したい)」という考え方もその一つです。

  1. 苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切が苦(ドゥッカ)であるという真実。
  2. 集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。
  3. 滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ。
  4. 道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ。

引用:四諦 - Wikipedia

Wikipediaは少々難しく書かれていますので、私の解釈で簡単に説明いたします。

  • 苦諦(くたい)は、「人生は苦である」
  • 集諦(じったい)は、「悩みや苦しみの原因は欲望・執着・執念である」
  • 滅諦(めったい)は、「原因である欲望・執着・執念を捨てれば、悩みや苦しみはなくなる」
  • 道諦(どうたい)は、「正しい生き方(八正道)を心がけて、欲望・執着・執念を捨てるということを日常生活で実践すればよい」

別に大して難しいことは言っていませんよね。「そりゃそうだよね」と納得できます。

ただ、1つだけ補足したいのですが、仏教でいう「人生は苦なり」や「四苦八苦」などの「苦」というのは、「苦しい」とか「つらい」という意味ではなく、「苦」の語源は「思いどおりにならない」を意味する「ドゥッカ」という言葉ですから、そのまま「思いどおりにならない」、または「自分の力ではどうすることもできない」といったニュアンスです。

生きていることや老いること、病気になることや死ぬことは、自分の力ではどうすこともできないのだから、そのようなことに対して悩んだり苦しむのは時間の無駄。「人生は思いどおりにならない」を知り、受け入れて、それを楽しんだほうが有意義な人生を送れると私は思います。

例えば、太陽は東から昇り、西に沈みます。それは自分の力ではどうすることもできない現象です。その現象に対して「なぜ西から昇らないんだ!」とか「どうしたら東に沈ませることができるんだろう?」と考え込むのは無意味ですよね。それより「今日は天気が良くて気持ちがいいなぁ」とポジティブに捉えたほうが良いでしょう。

ストレスの捉え方

今は「ストレス=悪」と考えられることが多く、「この病気の原因はストレスですね」と医者から抽象的な診断をされる人も少なくありません。しかし、ストレスそれ自体に善悪があるのではなく、そのストレスをどう捉えるのかという自分の捉え方次第なのです。

先日、「将棋の記事」を書きましたが、将棋というのはストレスの塊です。

形勢不利の局面で自分の手番、「どこで間違ってこんなに悪くなったんだ?」とか「形勢逆転の一手はないだろうか?」ということを考えながら複数の筋を読み進めて最善手を探すわけです。

2手先や4手先の浅い読みで無理筋だと分かれば楽なのですが、実戦は詰め将棋とは違い、その読み筋に答えがあるのか無いのかも分からないまま深く読み進めていって、「この筋ダメやん…」と気づいたときには読み疲れて心が折れそうになります。

心が折れそうになると、「ボードゲームに何を必死になって考えているんだろう…」とか「もう『負けました』と言って投了したら楽になれるだろうな…」と、考えても答えを見つけることができないストレスから逃れることを考えてしまいます。

しかし、将棋というのは「勝ったから良い、負けたから悪い」と単純に結果だけで善悪を判断できるものではありません。名局と呼ばれる芸術作品は勝者だけのものではなく、勝者と敗者の二人が最善を尽くした結果によって生み出されるものだからです。

ですから将棋は、その結果に至るまでの内容、つまりプロセスのほうに価値があり、最善手を見つけなければいけないというストレスを楽しむゲームなのです。

将棋に詳しくないという人は、昔の「ドラクエ」を思い出してみて下さい。

ドラクエはラスボスを倒したらゲームクリアですが、例えば、ゲームを開始してすぐにラスボス戦が始まり、そのラスボスをあっという間に倒してゲームクリアしても「やったー!ドラクエ楽しかったなぁ!」とはならないでしょう。

勇者の名前を考えることから始まり、つらいレベル上げや装備を整えるためにゴールドを貯めること、あっちの村に行け、こっちの町に行けという指示に従わなければストーリーが進まないのは、ストレス以外の何ものでもありませんが、そのようなストレスがあるからこそ、達成感や満足感を得られるゲームではないでしょうか。

それを人生に置き換えて考えてみると、必ずしも「ストレス=悪」とは言えず、自分の人生にとって必要なストレスに気づくことができます。

人々の「悩み」は人工的に作られる

私は口頭ではあまりアドバイスをしないタイプなので、人生相談とは呼べないかもしれませんが、他人から相談や悩みごとを一方的に聞く機会が多いです。

ちなみにアドバイスを控える理由は、私の考えが必ずしも正しいとは限らないからです。特に相手が女性の場合は聞くことに意味があり、私のアドバイスは求められていないでしょう。

老若男女を問わず、人の悩みというのは、「お金」、「仕事」、「健康」、「人間関係」の4つに大別でき、そこからカテゴリー分けして掘り下げて考えることができます。

  • 「お金」→「安月給」→「増やしたい」→「投資」
  • 「仕事」→「きつい」→「辞めたい」→「転職」
  • 「健康」→「肥満」→「ダイエット」→「つらい」
  • 「人間関係」→「恋愛」→「遠距離」→「寂しい」

大体このような感じですが、分かりにくいのは「人間関係」でしょうか。

例えば、「ショートかロング、どっちの髪型が似合うか悩んでる」という悩みとも言いがたい些細な悩みであっても、「他人から良く見られたい」という心理が働いて、他人を意識している悩みになりますから「人間関係」に分類できます。

他人の悩みを聞く機会、または自分が抱えている悩みがあれば、その悩みを観察してみると分かると思います。きっと「お金」、「仕事」、「健康」、「人間関係」のどれかに関する悩みでしょう。

私は、それを昔から不思議に思っていました。

「十人十色、人は考え方や好みが違うのに、なぜ悩みだけは皆同じような事で悩むのだろう?」とか、「それが人間の本能的な性分だとしても、21世紀現在まで人類の進化過程において、悩みに対する対策や対処法がある程度は確立されていてもおかしくないだろう」と、そのように思っていました。

しかし、「人々の悩みは人工的に作られている」と気づいた時、不思議でも何でもないと納得しました。

以前、「テレビを見るとバカになる?テレビに洗脳されない方法」という記事を書きましたが、良くも悪くも、テレビは人間社会に大きな影響を与え、様々な情報に翻弄されることで人々の悩みが作り出されています。

例えば、ギャンブル依存症のドキュメンタリー番組もあればパチスロ番組もありますし、食欲をそそられるグルメ番組の後に健康番組でダイエット特集をやっていたり、購買意欲を掻き立てられる番組や節約術を紹介する番組、結婚したくなる番組や離婚したくなる番組など、テレビから様々な影響を受けて、「ああしなければいけない」や「こうするべきだ」と多くの人々が思い込んでしまいます。

その思い込みこそ、多くの人々が同じような悩みを抱えている理由であり、それは多くの人々に同じような悩みを作っておくと都合がいい“誰か”の思惑でもあるのです。

社会全体に与える影響を考えると、直接的にも間接的にもテレビが悩みを作り出している1つの要因と言えますから、「ギャンブルで作った借金は自己責任だ」とか、「自分が食べ過ぎて太ったんだから自業自得だ」といった言葉で片付けられる問題ではなく、社会全体の問題として捉える必要があるわけです。

先ほど、東から昇り、西に沈む太陽の話をしましたが、そのような自分の力ではどうすることもできない自然現象に悩むのはバカらしいことですが、人間の思惑によって人工的に作られている悩みに対して真剣に向き合わないのはアホらしいと私は思っています。

自分を信じて生きる

私は自分を信じて生きるように心がけています。

ただ、自分を信じるとは「自分は正しい」という傲慢さではなく、「自分は正しくない」を自ら認められる謙虚さだと思います。

これは単純な話ですが、教師は学業を教えられるが病気の診断はできない、医者は病気の診断はできるが弁護人にはなれない、弁護士は弁護人になれるが学業は教えられない。教員免許・医師免許・弁護士資格の3つを取得している人は別ですが、基本的に「餅は餅屋」です。

人は専門分野に詳しく、専門外に疎いというのは自然なことであり、何事に対しても「自分は正しい」と思い込んでいる人は自惚れや慢心があるからです。

余談ですが、15年ほど前、私は仕事の関係で約70人の経営者とお付き合いがありました。多くの社長さんと話していると、自分の力だけを信じる傲慢なワンマン社長と、社員のアイデアや意見を積極的に取り入れようとする謙虚な社長さんの2種類に分けられることに気づきます。

15年経った今、ワンマン経営だった会社はほぼ全て倒産しており、謙虚な社長さんが経営する会社は、息子さんに代替わりしているところもありますが、今でもほぼ全ての会社が存続しています。「自分は正しい」という思い込みの末路を垣間見た気がします。

話を戻しますと、私が何かを決断するときは私自身が納得したときです。

では納得するために何が必要かというと、その物事を正しく判断できる判断力です。私は「自分は正しくない」と思っていますから、正しく判断する為の判断材料、つまり情報が必要になります。

情報というのは、1つより2つ、2つより3つと多ければ多いほど判断の精度が上がります。

例えば、というか最近あった話ですが、友人にある本を薦められました。友人の話を聞いていると読んでみたくなったので、その本をAmazonで注文する際に購入者のレビューを見てみると、低評価が多く否定的なコメントばかり書かれていました。

あまりに酷いコメントばかりで、「一体どんな本なの?」と逆に興味が湧いたので、結果的にAmazonで注文したわけですが、友人の話だけを信じ、多くの方々の購入者レビューという情報を得ていなかったとしたら、それは最善の決断ではないので「なんだよこれ…買って失敗したなぁ…」と後悔していたかもしれません。

本なら買って失敗しても1,000円程度の損失で済みますが、もっと金額が大きいものであったり、損失がお金ではなく、時間や生命に関わること、信用や信頼という人生を左右するような重大な決断には相応の情報が必要になります。

つまり、私の言う「自分を信じて生きる」とは、

私は正しくないのだから、
自分で調べ、
自分で考え、
自分で判断することが必要であり、
自分が納得して決断したことに後悔することはない。
私はそれを知っているから、そう生きる。

という意味です。

宗教は「生死」をテーマにした哲学

宗教は簡単にいうと、「生死」をテーマにした哲学です。

宗教とは、仏教だったらお釈迦さま、キリスト教だったらイエス・キリスト、イスラム教だったらムハンマド、創価学会だったら日蓮か池田大作さんという先人の叡智(知恵)から、「こういう生き方をするといいですよ」とか「死後の世界はこうですよ」という「生」と「死」に関わる知恵を学ぶものです。

私は特定の宗教を信仰していないという意味で無宗教ですが、お釈迦さまに興味があった時期は仏教について学びましたし、子どもの頃は「十戒」という映画が好きだったので、ユダヤ教の旧約聖書とキリスト教の新約聖書の違いに興味を持った時期もありました。

ただ私は、宗教に興味があるわけではなくて、一般的に「偉人」と呼ばれる方々のものの見方や考え方、理屈や概念といったものに興味があるだけです。それを知ってどのように判断するかは自分次第ですが、それを知らなければ少ない判断材料、限られた選択肢の中から何かを決断せざるを得なくなるのです。

そして、宗教が「生死」をテーマにした哲学であるならば、1つの宗教に固執する必要はなくて、様々な哲学者を広く浅くでも学んだほうが判断材料や選択肢が増える分、自分の判断に自信を持って決断できるでしょう。

好き嫌いは別として有名な哲学者だと、ソクラテスやプラトン、カント、マルクス、ニーチェ、孔子や老子あたりだと思いますが、これも実は、“昔の哲学者”に固執する必要はなく、現代を生きる人でもブログやYouTube等を使って素晴らしいことを発信している方々はたくさんいますし、ゴム人間や駆逐される巨人といった漫画やアニメからも多くのことを学べると思います。

それなのに1つの宗教だけを信じ、1つの哲学しか学ぼうとしないのは勿体無いことです。

たしかに多くを学ぶのは大変なことです。1つのことを学ぶのは比較的簡単であり楽です。もちろん「楽をしてはいけない」とか「努力しなければいけない」などと言うつもりは毛頭ありませんが、自分の生き方や自分の人生がたった1つの哲学に縛られるなんて勿体無いではありませんか。

「信じる」といえば聞こえはいいですが、自分以外のたった1つの何かを帰依レベルで信じるというのは、誰かが調べ、誰かが考え、誰かが判断し、誰かが導き出した答えに従うだけの面白みのない楽な生き方です。それは自分の人生を放棄したも同然なのです。

このような話を創価学会の学会員さんに話したことがあります。

すると、「いえいえ、創価学会に入っても『ONE PIECE』のアニメを観てもいいし、『進撃の巨人』の漫画を読んでもいいですよ」と言われました。

「いやぁ、そういうことじゃないんだよなぁ…」と思いつつ、まともに意見交換もできないのであれば、やはり私の人生に創価学会は必要ないと判断しました。

以上です。人生を諦めている私の人生観が誰かのお役に立てれば幸いです。



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